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相撲、江戸前寿司の聖地「両国」

2017/5/22

ブログ

こんにちは、つきぢ神楽寿司両国江戸NOREN店近くの両国国技館では5月場所が開催されています。多くの人が両国に集まってきていますね。「両国」といえば「相撲」といったイメージが一般的でしょうか?ですが両国は「江戸前寿司」発祥の地でもあるのです。今回は両国を「相撲」「寿司」2つのテーマからみてみましょう。
 
もともと相撲は古代には存在し、奈良時代にルールが制定、戦国時代に土俵の原型が考案されるなど、長い歴史を経て今の形になっています。そんな相撲が何故両国の地に結びついたかというと、それは江戸時代に行われていた勧進相撲(かんじんずもう)が要因になっているようです。
勧進相撲とは、お寺や神社を建てるためのお金を集める為に開催された相撲のことです。本来江戸の各地のお寺の境内で行われていたのですが、その内両国にある回向院(えこういん)というお寺での開催が頻繁に行われるようになりました。そのため同境内に相撲の競技場が建設され、これが両国国技館の始まりとなったそうです。
その後火災、空襲と数回の全焼と再建、建て替え工事を繰り返し、今の両国国技館の形が出来上がったようです。
相撲の語源は「負けまいと張り合う」を意味する動詞「すまふ(争ふ)」。
幾たびも立ち上がる両国国技館の姿は、まさしく相撲の精神を象徴する存在として、今日も両国の地に立ち、人々から親しまれています。

 
2、両国の「寿司」
 
一方寿司の起源ですが、この寿司もまた平安時代にはすでに原型が存在したようです。
大阪が先に大阪寿司という食文化を定着させつつある中、華屋与兵衛という人物が江戸前寿司の文化を作ったとされています。
それまでの寿司が押し寿司など、作るのに時間がかかるものだったのに対し、華屋与兵衛は屋台で気軽にすぐ食べられる立ち食い寿司のスタイルを確立、もともと刺身が好きだったことに加え、せっかちな気質だった江戸っ子に大きく人気を得て、次第に江戸中に広まって行きます。
何故両国が寿司の聖地になったのか?
と言われれば「両国に華屋与兵衛が店を最初に開いたから」というのが多くの回答になります.
ですが、それに加えて、両国が寿司のネタとなる魚が取れる東京湾に近かったこと、当時江戸でも両国は娯楽施設と屋台のお店が立ち並ぶ今の繁華街のような場所で、多くのお客さんがいたということも要因となるでしょう。

 
3、両国の「寿司」と「相撲」の関係は?
 
さて、二つのテーマと両国の関係についてお話してきましたが、これら二つが両国で発達したとなると、その要因に関係はあるのか?という疑問が生まれてきます。実際、どこにも両者が関係したことを匂わせるような話などは存在しません。ここからは私なりに、両国を代表する2つの文化の関係を考察してみます。
両国の相撲文化の起源となったと施設と記載した「回向院」と江戸前寿司の創始者華屋与兵衛が初めて店を開いた場所はわずか100mほどしか離れておりません。この立地に理由はあるのでしょうか。
回向院は、勧進相撲を行なっていたほか、出開帳(でかいちょう)という行事を開催していました。これは、お寺にある宝物や神体を公開し、一般の庶民に拝観の機会を提供するというものです。当時の回向院には、全国各地から神体が集まってきて、それを参拝しようとこれまた多くの人が集まったとされています。
華屋与兵衛はもしかしたらこの行事を見越して人が集まる場所に店を開いたのか?なんていう推理ができるかもしれません。
そのほかにも、当時の両国は江戸最大の盛り場と言われ、江戸の中からも外からも、多くの人が集結する場所でした。まさしく当時の江戸の文化の最先端の地だったのです。
華屋与兵衛が寿司屋を開いたのがおよそ1824年頃とされ、その10年後の1833年に回向院では、勧進相撲が年に2回、定期開催されるようになります。寿司の文化が広まりつつあった頃、相撲の文化もまた人々に馴染みつつあったのです。

 
いかがだったでしょうか?両国の「相撲」「寿司」両者そのものに接点はなかったかもしれません。しかしたくさんの人々が集まり、文化を形成していた両国という土地の土壌は、2つの文化発展に大きく貢献したことに違いありません。
これからもこうした文化の聖地として、両国の姿を後世に残していきたいですね。
つきぢ神楽寿司では、大相撲5月場所記念で、つきぢ神楽寿司両国江戸NOREN本店にて、特上セットを1000円引きでご提供しております。

https://tukijikagura.jp/archives/3983
当時の両国に思いを馳せながら、伝統の江戸前寿司を是非ご堪能ください!